zumaのはてなブログ

この世で一番好きなのは、本を読むことと歩くこと(「ぐりとぐら」風に♪)

『貧乏な叔母さんの話』【#2(短編)】

2016年が始まった。昨日と今日で何が変わるということでもないのだろうけど、大晦日から元旦へ移り変わるこの2日間は、一年のうちで、何か特別な気がする。不思議なものだ。

 

『貧乏な叔母さんの話』というこの短編は、『羊をめぐる冒険』以前に書かれた初期短編に位置する。主人公の背中に、ある日、貧乏な叔母さんが張り付いていた、というくだりから始まる、僕がまだ若かった頃に読んだときは、なんともいえない奇妙さとともにある種の存在感を感じた。主人公と同じように、「貧乏な叔母さん?」と思ってしまう。いま読み返すと、それなりに解釈はできるのだが(まあ自分なりの)。

作者は、相対的に弱い立場の人々への関心が強くあったのではないだろうか。でも、この作品が書かれた高度成長期ちょと過ぎたあたりの日本において、あまりそういう「辛気臭い」話題からは距離を置く空気みたいなものが主流としてあった。主人公の背中に張り付いている「貧乏な叔母さん」は、いわば観念としての弱い立場の人々であり具体的なフォルムをもつものではなかった。の象徴だった。

後半の印象的なのは、電車の中で母子づれの、小さな女の子を見かけた場面だ。詳しい引用はしないが、女の子が弟から自分の帽子を奪い返して母親から叱られるのを見て、主人公は手を差し伸べて力づけてあげたいと願う、しかしその主人公の手は真っ黒に汚れている(比喩的な意味で)。その後、気が付くと、「貧乏な叔母さん」は背中からいなくなっていた。弱い立場の人々というものが、観念的→具体的に手が届く場所に来た時に、いかに自分が無力かを知り、観念的ではなく具体的に手が届くところから始めるべきだ、でもどこから始めたらいいのかわかない、そんな気持ちが伝わってくる(あくまでも個人の感想です)。

無力さと気がかりという部分は、職業柄、僕自身の内にあるものでもある。

ちなみに、この短編が収録されている短編集『中国行きののスロウ・ボート』も、高校の時に友人のじぇいに薦められた本だ。当時は面白さがまだよくわからなかった。なんとなく、気にかかる作品であったけれど。

中国行きのスロウ・ボート (中公文庫)

中国行きのスロウ・ボート (中公文庫)

 

 

『遠い太鼓』に誘われて

 2015年もあと3時間あまりで終わる。今年は病気で明け暮れた一年だったな。『遠い太鼓』は、紀行文という表現で良いのかわからないが村上氏がヨーロッパに滞在したときのことを記したものである。これも高校時代にじぇいという友人が進めてくれ、好んで読んでいた本だ。

リハビリのように文章を書くというような表現があったと思うが、僕も今、リハビリ代わりにブログに文章を書いている。

本書の冒頭に、蜂のジョルジョと蜂のカルロが登場する。ぶんぶんぶんぶんぶんぶんぶん、と羽音をたてながら飛ぶ想像上の蜂。著者の脳を針で刺してぶよぶよにしてしまうというようなことが書いていて、著者の疲労具合をうまくあらわしていた。

ところで、僕の自宅には蜂がよく飛んでくる。ある日の朝、パンツをはいたときに局部に強い痛みが走り、あわてて脱ぎ捨てたら、パンツの上をアシナガバチらしき物体がもぞもぞと動いていて、新聞紙をまるめて叩き潰した。意外と腫れもせず、アナフラキシーショックになることもなく、子どもらと一緒に笑い飛ばした。

この一年も暮れていく。著者は、この本の中で「回復の年」という章を設けていて、そのあたりからまた、文章が書けるようになってくる。今年は僕にとっての、『遠い太鼓』的な一年だったのかもしれない

遠い太鼓 (講談社文庫)

遠い太鼓 (講談社文庫)

 

 

オニさんオニさん何色がすき?~体力の限界

体力の限界を感じた。。。

娘と息子をつれて、自宅から歩いて3分くらいの公園にいく。しばらく、サッカーボール蹴ったり、木登りしたりしていると、近所に住んでいる子供が二人公園にくる。大体うちの子ど同年代。子ども4人と大人1人が同じ公園にいるという状態になり、自然発生的に遊びが発動する。しばらく、ボール投げたり滑り台したり穏当に遊んでいるが、そのうち、オニごっこがはじまる。「いろおに」という遊びで、「オニさんオニさん何色がすき?」とオニ以外の人が声をあわせて言い、オニ役が「〇〇色!」と叫ぶと皆が公園内にあるその色を触りにいく。触る前にタッチすればオニの勝ちで交代となる。

唯一の大人である僕も強制的に「いろおに」に参加することになり、最初のオニ役となる。「〇〇色!」と叫んで追いかけるのだが、6~8歳くらいのこの子供たち、めちゃめちゃすばしっこい。もうハアハア言いながら、おっさんは追いかけるのだが全然つかまらない。つかまらなければ、また「オニさんオニさん・・・」。それがエンドレスでつづく。体力の限界を感じる、ある晴れた午後の時間であった。

ところで、僕は若いころ、一人でいることが好きで、人と関わらずにいられるなら関わらずにいたいと思っていた。今も基本的にはそういう傾向がある。憩いの時間は、トイレで読書すること。だから、「世間」ということもあまり意識せずに来たと思っている。自分がいて、世の中があるだけ。気が向いたときに関わり、気が向かないときには関わらない。まあ、学業とか仕事とかはそれなりにこなしていたが。それが、カミさんと一緒になり子もできると、「世間」というものに嫌でもさらされることになる。かなり強制的な現象である。まず、家族という「世間」、そしてカミさん、子どもたちの友人・クラスメート、果ては近所の人などとも関わらざるを得なくなる。そうして、一人でいることが好きな僕にも自動的に「世間」というものの空気が入り込んでくる。

公園で「いろおに」をしているのも、「世間」の空気が僕の中に流れ込んでくる瞬間だといえる。でもまあ、おっさんになった今の僕には、これが意外と居心地良いひとときだったりする。

素人の乱~リベラルアーツ教育について思う 『池上彰の教養のススメ』

 乱、というほどの大げさなものではないが、素人が何を感じるか、考えるか、発想するかというのは、とても大事なことだと思っている。ある分野についての「専門家」といわれる人がいるとして、それ以外の「素人」というかその分野の専門家ではない人たちがいる。ある特定の分野については、大多数は素人である。それぞれの素人は、自分にとっての専門分野といえるものはあるだろう。たとえば、僕は一応、精神保健福祉を専門にしている。

自分にとって専門分野ではないこと、自分はその分野について素人だ、という立場でさらっと学んだところで何を感じるか、考えるか、発想するかということは大事だと思う。

池上彰の教養のススメ』は、東工大で取り組んでいるリベラルアーツ教育(教養教育)について共著の形で論じている。印象に残ったのは、「科学は価値判断をしない」ということ。東工大という工学を専門にする学生が大多数の大学であえて教養教育を大事にしていこうとしている。それは、「すぐに役に立つ学問はすぐに役に立たなくなる(陳腐化する)。歴史学、生物学、哲学、文化人類学などの一見、工学という専門分野からすれば役に立たなさそうな学問が、実は長い目で見て大切だし時代の変化に応じて専門分野を展開していく上で鍵となっていく。なぜならあらゆる営みは人間を土台にしている。人間についての知識というものがベースにない専門知識はとても脆く、応用がきかない。」といった趣旨のことが感じられて、とても腑に落ちた。

このことは、工学を専門とする人たちに限った話ではなく、あらゆる専門家にとっていえることだと思う。学ぶべきことはあまりにも多く、素人として学べることも論じることにも限りがあるし、その論は専門家からみれば穴だらけかもしれない。でも、素人(僕もかなりのド素人である)が自分の専門としないことについて、あえて関心をもち、感じ考え発言していくことは、とっても大事なことだと思うのだ。

 

先人たちの知恵~備長炭を使ってみて

昨日、実家で忘年会をして親族が集まった。ホタテやカニなどを囲炉裏テーブルで備長炭で焼いて食べた。備長炭は煙がほとんど出なくてしかも火力が半端ない、なぜか?それは、炭素の純度が著しく高いからだ、という話が出てなるほどと思った(専門的には違った説明になるのかも知れないが、まあ素人同士の世間話です)。同じレベルの炭素純度を人工的に作ることは技術的には可能だが、とても効率が悪い。それに比べ、和歌山のある地域で作る備長炭は、炭焼き釜で手作業で、しかも材料は特定の樹木じゃないといけない(ウバメガシ、だったかな違ってたらすみません)を時間をかけて育てた上で、やっと作ることができる。数十年、数百年レベルで積み重ねられた技術、材料の伝承の上になりたっている。でも近年、備長炭の作り手(後継者)が少なくてこのままでは伝承されていかないかもしれない、じつにもったいないことだなあ、と思う。

『村上春樹の短編を英語で読む1979~2011』

「テキストをどう読むかは読み手の自由」という考え方がある。そういう意味では、あるテキストを読んでどう感じるか、どう解釈するかということは、ひとりひとりの読み手にある程度ゆだねられていることになるし、それはひとりの読み手である僕にとっても自然なことだと受け止めている。

村上春樹氏の作品についての解説本、解釈本というべき一群の書籍(ムラカミ作品本とでもいうべきか)が多く出版されている。僕も参考として、ときどき読む。

本書は、長編を論じるムラカミ作品本が多数を占める中で、短編を中心に論じられている点で画期的だと感じる。ユニークなのは、短編、長編それぞれに独立して作品番号をつけている点である。整理しやすいと思うので、今後このブログで村上春樹氏の作品を取り上げるときは、本書で採用している作品番号をつけて表示したい。

ちなみに、前述した『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』の作品番号は、「#4(長編)」である。

村上春樹の短編を英語で読む1979~2011

村上春樹の短編を英語で読む1979~2011

 

 

『ハルキ・ムラカミと言葉の音楽』

 僕と村上春樹氏の作品との出会いは、高校時代へとさかのぼる。当時、じぇいという友人が「これ、おもしろいよ」と薦めてくれたことがきっかけだ。それは『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』という本だった。

それ以降、僕は好んでムラカミ作品を読んでいくことになるのだが、作品について論じた本に取り組むようになったのは、社会人になって以降のことだった。

その中でも印象に残っているのが、ジェイ・ルービン著『ハルキ・ムラカミと言葉の音楽』である。僕はどちらかというと次々に読破していくタイプの読み手ではなく、気に入った作品を繰り返し読むタイプの読み手だと思う。大学生のときには、『ダンス・ダンス・ダンス』にはまっていた。何度も何度も読みかえした。読んでいるとき、自分の脳内でなにが起こっていたのかは自覚的ではなかったが、本書を読んで気づいた。僕は、音楽を聴くようにして『ダンス・ダンス・ダンス』を読んでいた。そういうことはあまり考えていなかったが、指摘されてみると、自分の中では腑に落ちることだった。

ハルキ・ムラカミと言葉の音楽

ハルキ・ムラカミと言葉の音楽