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zumaのはてなブログ

この世で一番好きなのは、本を読むことと歩くこと(「ぐりとぐら」風に♪)

いま感じていること

先月、僕も四十路を迎えた。仮に人生を八十年と想定するなら(もちろん特定の個人の余命は誰にも分からない)、マラソンでいえば折り返し地点を通過しつつある、ということになるのかも知れない。

 

いま感じていること

①人は、すでに語られた言葉を用いて語りをしている

②人は、巨人の肩の上に乗っている

③すべてのことは、スペクトラム

あと、ふたつみっつあったが、ふと忘れた。

 

そんなわけで、まず①について。

自分が喋っている言葉は、すでに誰かに語られた言葉だな、と思う。母語を使えるようなる過程では、赤ちゃんのころから周囲(親とか)からの語りかけがあって、だんだん言葉を発するようになる。そうこうしている間に母語を使えるようになっていく。友達からネタを仕入れたり(お前の母ちゃんデベソ!的な)、近所のおっさんから怒鳴られたりしながら、身体に言葉をしみこませていく。そんなこんながその人の身体から発せられる言葉の源になっていく。

あることを論じるという行為についても、すでに語られたことのある言葉で構成されている。構成を組み替えて、伝わりやすいようにしたり、新しさを出していったりということはあるだろう。ちょうど、ピアノでいえば、鍵盤は限られているけど、演奏できる音楽は無限であるように。

②について

①との関連になるが、人は巨人の肩の上に乗っているといったのは、誰だったか・・・忘れた。たぶん、科学者だったように思う。その通り、人は巨人の肩の上に乗っている、と思う。本当にいろんな意味で。

平家物語を声に出して読んでみると、身体に響いてくるものがある、それは理屈ではなく。近所の神社にいってみると、ふと懐かしさのようなものを感じたりする、それはイデオロギーとか抜きで。先カンブリア紀から、カンブリア大爆発を経て生物はずっといのちをつないでいる訳だけれど。新生代から(だったかな)人類が営みを開始して、いろんなことがあって、いまの僕たちがある訳だけれど。身体に染み込んでいるものというのは確かにある。たとえば、哺乳動物から始める愛着形成のメカニズムとか。

あることで論を展開するにしても、巨人の肩に乗らざるを得ない。なかば無意識のうちに乗っているはず。共通の巨人の肩の上に乗って初めて、伝えることができる。

③について

疲れたので、また今度

うつになってから、病気になる前と比べて、疲れやすくなったな、て思う。