zumaのはてなブログ

この世で一番好きなのは、本を読むことと歩くこと(「ぐりとぐら」風に♪)

はてなダイアリーと日記

僕は日常的に日記をつけている、というのは、あまり正確な表現ではない。まず、僕は日常的に本を読む。もっというと活字中毒といってもいいかも知れない。まだ少年というか幼児のころから、本(まずは絵本ですね)は好きだった。ときどき寝る前に母親が読み聞かせしてくれたことが大きいのか、とにかく小さいころから本は好きだ。題名は正確に覚えているとは言い難いけど、たとえば『三匹のやぎのガラガラドン』(だったかな)とか、『ハロルドの不思議な冒険』(だったと思う)とか、今でも脳内映像に貼り付いていて、あらすじとかではなく当時感じた心象風景のようなものが、ふっと浮かんでくる。

と同時に、少年だった頃から、日常的に文章を書いていた。べつに毎日定期的に書いていたわけではなく、本を読んだり遊んだり(めっちゃ遊んでた)日々の暮らしを送っている中で、ふっと文章が書きたくなるときがあり、書く。最初はノートのようなものにメモのように書いていたし、今もそれはしているけど、中学にあがったときに、日記帳なるものを誰かからプレゼントされて以来、日記帳というツールは長い間、僕の日記生活において欠かせないものとなっている。

ウォー!って思ったもん。だって最初から本(のような形)になっているんやで!普段日常的に本を手放せない僕。そんな僕が書く日記が本の形になっている。これはある意味革命的というか、当時中学生だった僕は素朴に感激してしまったのだ。

その後、時を経て、5年日記なるものが登場してからは、それを愛用している。何といっても5年分が一冊に収まるのでコンパクト。それでいて、同じ日付が5年分縦に並んでいる構造になっているので、「どれどれ、昨年の(あるいは一昨年の)僕は何していたのかな」といったことも瞬時にわかる(まじめにつけていれば)。

そんな僕にとって、(ノートが第一次日記革命、日記帳が第二次日記革命だとすると)はてなブログ(というか、はてなダイアリー)は第三次日記革命ともいうべき衝撃があった(あったと思う)。はてなダイアリーの時代から、はてなとはお付き合いをしているので、かれこれ15年位になるのかな、ベータ版の頃から使っている。

紙媒体での日記執筆(というほど大げさなものではないが)に比べると、細かな違いはちょこちょこあるが、大きな違いは「公開」されるということだと、個人的には思っている。もちろん公開しないという選択肢もあるが、やはり「公開されうる」ということが大きな衝撃だった。だって、紙媒体のときは日記を公開しようという発想は僕の中には無かった(見られるの嫌や)。そもそも公開されることを前提で日記を書いていない。

だから、はてなダイアリーを試しに使ってみたときに感じたことも、「公開されうる」というだけで、なんか公の場で(たとえば閑静な郊外住宅にあるひそやかな公園で)パンツを脱いでブランコしているような、そんな丸裸になった感じ。だって誰にみられるかわからないもんね。それは僕にとって、大げさにいえば「パラダイムの転換」のようなものだった。

そういうこともあってか、初期のはてなダイアリーに僕が書いたものは本当に当たり障りのないこと。こんなこと書いてなにか意味があるのかなと思うこともあり、書くことをやめてしまった時期もかなりある。何を書いていいのか、何を書かないほうがいいのか、それすらわからなかった。うまく距離感がつかめなかったんだと思う。

じゃあ、はてなダイアリーをまったく無視すればよかったじゃないか、と言われればそうかも知れない。でも、まったく無視できない「何か」がそこにはあったのだと思う。だからこそ、不真面目なはてな書き手(あるいは不真面目なはてな読者)ながらも、はてなとお付き合いをしてきたんだと思う。

じゃあ、無視できない「何か」って何だ?なんだろう。それについてはまたの機会に。

 

高橋 手帳 2016 5年卓上日誌 A5 No.61

高橋 手帳 2016 5年卓上日誌 A5 No.61