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この世で一番好きなのは、本を読むことと歩くこと(「ぐりとぐら」風に♪)

『シッダルタ』(ヘルマン・ヘッセ作、手塚富雄訳、岩波文庫)を読む。

 

 読後の余韻が半端無い。本書は1922年、ヘッセが45歳の時に完成をみた。あくまで一読者としての感想だが、西洋人である作者が、これほど東洋の思想に肉薄していたことに驚きを禁じ得ない。法華経の真髄と響きあい、その体得を助けてくれる様に感じる。

 秋山六郎兵衛『ヘッセ研究』(三笠書房)に解説があるので、興味ある方は参照されたい。

 

本文より引用

「『知恵というものは人に伝えることができない』智者が人に伝えようとする知恵はいつも阿呆の言葉のように響くものだ。(中略)真理は常にそれが一面的である場合にのみ、口に言われ、言葉の衣装につつむことができるのだ。思想で考え言葉でいわれうるものはすべて一面的なのだ。みな、一面的、半面的で全体性、渾一性、統一性を欠いているのだ。世尊ゴータマも世界について説かれるとき、これを輪廻と涅槃、迷いと真、 煩悩と解脱とに二分されねばならなかった。他に仕方はないのだ。教えようとする者にとっては他に道がないのだ。(中略)「よく聴かれよ、友よ。よく聴かれよ。わたしも君もともに罪人のひとりで、現に罪人なのだ。しかしその罪人はいつか涅槃に達するだろう、いつか仏陀になろう。ところでこの『いつか』が迷いなのだ。それはただの比喩にすぎないのだ。罪人は仏性へ向かっての途上にあるのではない。彼はそういう発展の中にあるのではない。我々の考え方ではそう考えるほかに仕方がないが、そうではない、罪人の中に、いま現に、今日すでに、未来の仏陀があるのだ。