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zumaのはてなブログ

この世で一番好きなのは、本を読むことと歩くこと(「ぐりとぐら」風に♪)

内向的であるということ

一本の線の両端に、極端に外交的なタイプと極端に内向的なタイプを配置したとすると、その間のどのあたりに位置するかを問うことにより、人は自分がどの程度内向的なのか、または外交的なのかを考えることができる。

 

僕自身については、極端に内向的なタイプだと思う。 

 

内向型人間のための人生戦略大全

内向型人間のための人生戦略大全

 

 

C.G.ユングの「タイプ論」~内向と外向~

 

タイプ論

タイプ論

 

 

先日、「自閉症スペクトラム障害 外向型」という聞きなれない病名を耳にした。知り合いの精神科医に質問したところ、C.G.ユングの「タイプ論」を読んでから、専門書を読むと良いと助言され、早速、「タイプ論」を読む。

 

人は、内向と外向に分けられる。さらにそれぞれ、思考、感情、感覚、直観のどれかの機能が優位になることにより、そこに補償作用が働き、・・・というようなことが述べられているが、様々なところで参照できると思うので、ここでは割愛する。印象的だったのは、あるタイプに属するといっても静的(固定的)なものではなく、補償作用が働くので、動的な過程だということ。意識的には内向的であれば、無意識では外向的な反発力が働いたりする。

僕は、内向的思考型だと思う。外向型のことを知りたくて読み始めたが、結局自分に近しいところに興味がいき、そこを重点的に読んでしまう。

 

これは一般的な内向的思考型というより、僕の主観的な説明。

小さな頃から、自分の内側の世界で遊ぶのが好きだったし、今も好きだ。といっても、自宅でこもりきりだったというわけではない。外に探検にいくのは大好きだった。友達と遊ぶこともたくさんした。ただ、自分ひとりでいる時間も同じように楽しかった、ということだ。思考機能が優位な一方で、感情機能は抑圧されているので、感情表現が下手だったり、失感情(アレキシサイミア)になったりする。サブ機能として直観を働かせることにより、うまく切り抜けることができたりする。

 

そして、僕という一人の内向的人間という存在に興味が湧いてくる。

職場復帰して1年

職場復帰して1年が経つ。

仕事を再開した当初は、本当にエネルギーが限られていて、周囲の理解と配慮によって、なんとか出勤できていた状況。1年が経ち、だいぶ動ける時間が増えてきたように思っている。

自分の特性を理解し、配慮しながら過ごすことが、とても大切だと実感している。再発しないように。人生をより深く味わえるように。

 

ところで、”職場復帰”というと、うつのリワークということが盛んに言われているが、言葉だけ一人歩きしている感がある。狭義のリワークというと、何か特定のプログラムをパッケージしたものを思い浮かべる人も多いし、臨床でもそのように語られる。実際、クリニックの先生にリワークについて話題にしたところ、「そのような”パッケージ”したものを使いたいですか?」といった返答があったくらいだ。

自分がしていることも”リワーク”だと思っていて、もっと広義のリワークということを考えたいと思っているのだけれど、別の言葉を使ったほうが伝わりやすいかもしれない。

『ダンス・ダンス・ダンス』

今日は1月30日。1月4日から職場復帰して、4週間。1週目は挨拶まわりして、2週目は久しぶりの職場の雰囲気をみて、3、4週目はだいぶ取り戻してきた感じがする。ただ、疲れやすいのであまり飛ばしすぎないように、休憩をこまめにとるようにしている。

まずは、出勤して職場にいること、必要なことだけすることを心掛けた。なんとか4週間のりきることができた。

 

ダンス・ダンス・ダンス』は、僕が学生時代に好んでいた小説のひとつだ。なんど繰り返し読んだことか。

印象に残っているひとつは、社会復帰、というフレーズだ。僕、が文章的雪かきをしたり女性と寝たりなんやかやしてとりあえず身体を動かしてリハビリしていくような感じ。最後はユミヨシさんと朝を迎える。オドルンダヨキョクノツヅクカギリ、だったかな。踊るんだ、踊り続けるんだ。

アドラーの本に、「人生は刹那の連続である。ダンスを踊るように生きるんだ」という記述がある。

クリニックの先生からは、「一日ずつ、たんたんと」という言葉をもらった。

今日も一日、僕なりのダンスを踊ろう。

ダンス・ダンス・ダンス(上) (講談社文庫)

ダンス・ダンス・ダンス(上) (講談社文庫)

 

 

素人が専門外のことに首を突っ込むことについて

素人が専門外のことに首を突っ込むことについて

僕は「あり」だと思う。

 

論を展開するにしても、世間のいわゆる「論者」と呼ばれるような人が展開する論には、それなりの基礎的なルールというものがあるのだろうと想像する。たぶん、一定のルールを踏まえないと、そもそも「論を交える」という行為そのものがなりたたないだろうから。

最近は、専門分化が激しくて、専門外の人が発言すると、「門外漢が何を言ってるんだ」的な雰囲気になったり、攻撃されたり、ということもあるのだろう。僕はどちらかというと、攻撃されたりするような発言は控えてきた向きで、そういう危うい場には身をおかないようにしてきた。

でも、四十路を迎えたいまでは、こうも思う。そろそろ何か発言してもいいのではないか、と。専門外のことに発言する前に、そもそもある専門職が自分の専門ではない分野について関心をもち学ぶことは大いに結構であると考える。ようするに広い意味での「教養」を身につけるということ。そのうえで、ひとりの素人として、自分の専門ではない分野に、新鮮な視点を付け加えることは大いに結構ではないだろうか。

あとは、表現するうえで文章そのものの体裁も大事なのかな、とは思うが、とてもそこまでさくエネルギーも持ち合わせてないので、脊髄反射的に書いたこの文章でそのまま掲載する。

ブログのいいところ

ブログのいいところを列挙してみる(あくまでも個人の感想です)

 

①ほどよく開かれている

②読みたくなければ読まなくていい

③書きたいときに書くことができる

 

①について

閉じたシステムは、不健全になる。これは言われていることだし、僕自身実感もしているところ。閉じたシステムにも良いところはあるけど、不健全になることも多い(特に言葉の定義は省く)。ほどよく開かれている場で文を書くというのは、なかなか悪くない体験だ。自分専用の日記を誰にも見せない前提で書いているのとはまた違った趣きがある。

 

②について

メールなどは必ず読んでもらうこと前提で書いているが、もらった方は読まされることになる。ブログは、読み手にしたら、読んでも読まなくても良い。

 

③は説明しない。

いま感じていること

先月、僕も四十路を迎えた。仮に人生を八十年と想定するなら(もちろん特定の個人の余命は誰にも分からない)、マラソンでいえば折り返し地点を通過しつつある、ということになるのかも知れない。

 

いま感じていること

①人は、すでに語られた言葉を用いて語りをしている

②人は、巨人の肩の上に乗っている

③すべてのことは、スペクトラム

あと、ふたつみっつあったが、ふと忘れた。

 

そんなわけで、まず①について。

自分が喋っている言葉は、すでに誰かに語られた言葉だな、と思う。母語を使えるようなる過程では、赤ちゃんのころから周囲(親とか)からの語りかけがあって、だんだん言葉を発するようになる。そうこうしている間に母語を使えるようになっていく。友達からネタを仕入れたり(お前の母ちゃんデベソ!的な)、近所のおっさんから怒鳴られたりしながら、身体に言葉をしみこませていく。そんなこんながその人の身体から発せられる言葉の源になっていく。

あることを論じるという行為についても、すでに語られたことのある言葉で構成されている。構成を組み替えて、伝わりやすいようにしたり、新しさを出していったりということはあるだろう。ちょうど、ピアノでいえば、鍵盤は限られているけど、演奏できる音楽は無限であるように。

②について

①との関連になるが、人は巨人の肩の上に乗っているといったのは、誰だったか・・・忘れた。たぶん、科学者だったように思う。その通り、人は巨人の肩の上に乗っている、と思う。本当にいろんな意味で。

平家物語を声に出して読んでみると、身体に響いてくるものがある、それは理屈ではなく。近所の神社にいってみると、ふと懐かしさのようなものを感じたりする、それはイデオロギーとか抜きで。先カンブリア紀から、カンブリア大爆発を経て生物はずっといのちをつないでいる訳だけれど。新生代から(だったかな)人類が営みを開始して、いろんなことがあって、いまの僕たちがある訳だけれど。身体に染み込んでいるものというのは確かにある。たとえば、哺乳動物から始める愛着形成のメカニズムとか。

あることで論を展開するにしても、巨人の肩に乗らざるを得ない。なかば無意識のうちに乗っているはず。共通の巨人の肩の上に乗って初めて、伝えることができる。

③について

疲れたので、また今度

うつになってから、病気になる前と比べて、疲れやすくなったな、て思う。