zumaのはてなブログ

この世で一番好きなのは、本を読むことと歩くこと(「ぐりとぐら」風に♪)

歯の詰め物がとれた~火曜日から土曜日までのせつない時間

火曜日の午後、昼ごはんを食べていると、突然「ガキッ」という音が口内から歯を通して直接鼓膜に響いた。咀嚼しているものもまだ口内に残っていたが、その「ガキッ」の正体を確認すべく、口から取り出した。歯の詰め物だった(金属でできている)。

そういうわけで、その日の午後はテンション下がりまくり。周りに人にいうと、その詰め物はとっておいて、歯医者さんにいった方がいい、というので、ティッシュにくるんで大事にとっておいた。かかりつけの歯医者が(一応)あるので、そこに電話したが、あいにく予約が一杯で早くても土曜日の夕方になるとのことで、予約した。

右下奥歯の詰め物が取れたので、左側で食べ物をかむようにして食べる。火曜日から土曜日まで。片側でしか噛めないということの、なんとせつないことか。食べるスピードも遅くなるし、なんか自分の口ではないみたい。

で、昨日歯医者にいってきた。その金属製の詰め物をはめなおしてくれたのだが、なんの違和感もなくはまってくれた。歯科用のセメントをいれて、その外れた詰め物をそのままはめ込んでくれた。

そういうことに、僕は感動してしまう。詰め物を作り直しましょう、といわれても不思議ではないし、そうすれば何度か通わないといけないし、新たに作るだけで費用も掛かる。歯科としては売り上げにつながる(僕がこれまでかかってきたいくつかの歯医者さんではそういう傾向がみられた)。でも、そうではなくそのまま使ってくれたことで、診察は1回で終わった。僕も助かる。

セメントが固まるのを待って、夕ご飯を食べた。うん、何の違和感もない。ばっちり。

『コウノドリ』

ちょっと前まで、『コウノドリ』というドラマがやっていて、妻が観ていたので僕も横で見ていた。普段はあまりテレビは見ないのだけれど(テレビという媒体そのものがあまり好きになれない)、結婚してからは半ば強制的に家の中でテレビがつく状況が生まれる(妻はテレビっ子である)。

コウノドリ』に関しては、毎回楽しんで観ていた。ドラマ放映中は、「赤ちゃん1分で出すよ!」「おめでとう~!」というセリフが、我が家のキーワードになっていた(というか僕が好んで使っていた)。

で、先日妻が『コウノドリ』のコミックを友人から借りてきた。僕は、無類の本好きであるが、漫画も大好きだ。というわけで、空いた時間があれば、読んでいる。

ドラマのときはそんなに泣かなかったと思う。でも、原作のパワーというべきか、漫画の方を読んでいて涙腺を直撃されることが多々ある。大体ひと巻で1~2回くらい。改めて思うのだけれど、自分の子どもに出会えたことは、奇跡だ。

 

 

スターウォーズを娘と2人で観に行った♪

そういえば、先週の日曜日に娘と二人で、映画を観に行った♪

スターウォーズ・エピソード7」である。このあいだから、DVDをレンタルして、エピソード456123を公開順に、こどもたちと一緒に観ていた。上の子(娘)は、楽しんでみていたが(最初はグロテクスなキャラクターにおびえていたこともあったが)、下の子(息子)はあまり理解できないみたいで途中で飽きてしまっていた。

娘は、友達が「観た」と言っていたこともあり、俄然「観たい!」と言い始めたので、それならということで、娘だけ連れて行くことにした。まあ、娘とのデートである。家族4人または子どもと僕の3人で出かけることが多いので、2人で出かけるというのも、なかなか新鮮で楽しいものだった。

娘がいるので、自動的に吹き替え版を選ぶ。なぜか吹き替え版は3Dしかなかった。僕は3Dはどちらかというと苦手なのだが、まあ仕方がない。がんばって観ているうちに、ちょっと頭が痛くなったが、映画そのものは楽しめたと思う。

 

 

うつの職場復帰~リワークということ

うつで休職する人が増えているという。かくいう僕も、そのひとりだが、約1年間の休職を経て、年始からまた働き始めている。まだクリニックには通っているし、お薬も飲んでいる。職場には病気のことは伝えているので、配慮してもらいながらのリハビリを兼ねた働き方みたいになっている。

「うつのリワーク」という言葉が、日本でいつごろから使われ始めたか正確には知らない。保健福祉サービスの歴史を振り返ると、最初は大抵、まわりの人が世話をやいてあげて(インフォーマルに)、その人が生きていく上でのお手伝いをしていく中で、こうすればうまくいく、みたいなノウハウが蓄積され、公的な制度の創設につながったり、プログラムのパッケージ化みたいな現象が起こったりしてきている。名称の定義も、まずは様々なチャレンジ(工夫)があったあとで、あとづけで行われている。

そういう意味では、もともとそういう現象(うつの人が職場復帰すること)は、もちろんあったし、ノウハウも徐々に蓄積されてきたものを、パッケージ化したものが、「うつのリワークプログラム」ということになるのではないだろうか(というのが、ざっくりとした僕の印象である)。

先日、行きつけのクリニックで先生に、「うつのリワークについてどう思いますか」と聞いたら、「そういうパッケージ化したものを使った方がいいと思いますか」と反対に尋ねられた。別にクリニックの先生を批判しているわけではないが、うつのリワーク=パッケージ化したリワークプログラム、という図式ができあがってしまっているのかなと思う。

言葉に手垢がつく、という表現がある。「うつのリワーク」という言葉についても、ずいぶん手垢がついてしまっているな、と思う。尾崎は、うつのリワーク支援について「レディメイドではなくオーダーメイドでなければならない」と述べている。人間は、種としてはホモ・サピエンスとしての共通する部分はあるだろうが、ひとりひとり個体差のある個人であると同時に、社会的な背景も千差万別である。リワークといっても、10人いれば10通りのやり方があり、ひとりとして同じ人間はいない。洋服をオーダーメイドで選ぶように、リワークもオーダーメイドであるべきだ、という尾崎の主張に共感する。

僕の場合は結局、僕自身が自分の個性やおかれた社会的な状況にあわせて、リワークプログラムを自分で作り上げて実行している、ということになると思う。リワークプログラムは復職したあとも続いていく(リハビリ出勤や配慮した働き方などなど)。よって、働き始めた今も僕のリワークプログラムは実行中である。

そういう意味では、「これはリワークプログラムと呼べるが、あれはリワークプログラムとは呼べない」といった立て分けはあまり意味がないように思う(ある種の人々には意味があるのかも知れないが)。たとえば、特定の専門職が何人配置されていなけらばならない、とか。

 

うつ病リワークプログラムのはじめ方

うつ病リワークプログラムのはじめ方

  • 作者: うつ病リワーク研究会,五十嵐良雄,秋山剛,尾崎紀夫,徳倉達也,有馬秀晃,岡崎渉,片桐陽子,横山太範,福島南
  • 出版社/メーカー: 弘文堂
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はてなダイアリーと日記

僕は日常的に日記をつけている、というのは、あまり正確な表現ではない。まず、僕は日常的に本を読む。もっというと活字中毒といってもいいかも知れない。まだ少年というか幼児のころから、本(まずは絵本ですね)は好きだった。ときどき寝る前に母親が読み聞かせしてくれたことが大きいのか、とにかく小さいころから本は好きだ。題名は正確に覚えているとは言い難いけど、たとえば『三匹のやぎのガラガラドン』(だったかな)とか、『ハロルドの不思議な冒険』(だったと思う)とか、今でも脳内映像に貼り付いていて、あらすじとかではなく当時感じた心象風景のようなものが、ふっと浮かんでくる。

と同時に、少年だった頃から、日常的に文章を書いていた。べつに毎日定期的に書いていたわけではなく、本を読んだり遊んだり(めっちゃ遊んでた)日々の暮らしを送っている中で、ふっと文章が書きたくなるときがあり、書く。最初はノートのようなものにメモのように書いていたし、今もそれはしているけど、中学にあがったときに、日記帳なるものを誰かからプレゼントされて以来、日記帳というツールは長い間、僕の日記生活において欠かせないものとなっている。

ウォー!って思ったもん。だって最初から本(のような形)になっているんやで!普段日常的に本を手放せない僕。そんな僕が書く日記が本の形になっている。これはある意味革命的というか、当時中学生だった僕は素朴に感激してしまったのだ。

その後、時を経て、5年日記なるものが登場してからは、それを愛用している。何といっても5年分が一冊に収まるのでコンパクト。それでいて、同じ日付が5年分縦に並んでいる構造になっているので、「どれどれ、昨年の(あるいは一昨年の)僕は何していたのかな」といったことも瞬時にわかる(まじめにつけていれば)。

そんな僕にとって、(ノートが第一次日記革命、日記帳が第二次日記革命だとすると)はてなブログ(というか、はてなダイアリー)は第三次日記革命ともいうべき衝撃があった(あったと思う)。はてなダイアリーの時代から、はてなとはお付き合いをしているので、かれこれ15年位になるのかな、ベータ版の頃から使っている。

紙媒体での日記執筆(というほど大げさなものではないが)に比べると、細かな違いはちょこちょこあるが、大きな違いは「公開」されるということだと、個人的には思っている。もちろん公開しないという選択肢もあるが、やはり「公開されうる」ということが大きな衝撃だった。だって、紙媒体のときは日記を公開しようという発想は僕の中には無かった(見られるの嫌や)。そもそも公開されることを前提で日記を書いていない。

だから、はてなダイアリーを試しに使ってみたときに感じたことも、「公開されうる」というだけで、なんか公の場で(たとえば閑静な郊外住宅にあるひそやかな公園で)パンツを脱いでブランコしているような、そんな丸裸になった感じ。だって誰にみられるかわからないもんね。それは僕にとって、大げさにいえば「パラダイムの転換」のようなものだった。

そういうこともあってか、初期のはてなダイアリーに僕が書いたものは本当に当たり障りのないこと。こんなこと書いてなにか意味があるのかなと思うこともあり、書くことをやめてしまった時期もかなりある。何を書いていいのか、何を書かないほうがいいのか、それすらわからなかった。うまく距離感がつかめなかったんだと思う。

じゃあ、はてなダイアリーをまったく無視すればよかったじゃないか、と言われればそうかも知れない。でも、まったく無視できない「何か」がそこにはあったのだと思う。だからこそ、不真面目なはてな書き手(あるいは不真面目なはてな読者)ながらも、はてなとお付き合いをしてきたんだと思う。

じゃあ、無視できない「何か」って何だ?なんだろう。それについてはまたの機会に。

 

高橋 手帳 2016 5年卓上日誌 A5 No.61

高橋 手帳 2016 5年卓上日誌 A5 No.61

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

復職(リワーク)して2週間

復職(リワーク)してから今日で2週間。

1週間目にはかなり疲れを感じ、就業時間内でも横にならなければならないほどだった。2週間目は、1週間目に比べると、横になるのは昼休みだけだった。また、2週間目は、ぺらぺらっとしゃべってしまうのを意識的に抑えるようにした。だんだん、身体が慣れてきたのかもしれない。でも、今日は休日でぐだっと横になって過ごしている。起きれない。

『納屋を焼く』【#30(短編)】

復職して一週間と少し。あ~しんどかった、だけど場の雰囲気にいるうちに、少し手を動かしたり読んだり話したりしているうちに、だんだん思い出してくる。「そうそう、こんな風だったな」てな感じで。疲れてくると横になったりして、職場からも配慮してもらいながら働いている、というかその場に居る。

昨日は、クリニックの先生に会いに行く。結構、ある刺激に対してぺらっとしゃべってしまい疲れる」といった話をすると先生は、「一日ずつ、たんたんと」と唱えるといいよ、と教えてくれる。そんなわけで、いま僕は、「一日ずつ、たんたんと」とマントラのように時々口に出してつぶやくようにしている。そして、カラオケで思い出した、好きだったオザケンを聴いたり好きな本を読むようにして、心をほぐしている。以前は、誰が何と思うかを多少気にして行動していたけれど、今は「プライベートの時間に僕の好きなことをしていて何が悪いんだ」と開き直っている感がある。オザケン好きな人が身の回りにいないんだよね。

というわけで、(何の脈絡もないけど)『納屋を焼く』という短編を読む。好き、とまではいかないけど、読後感が鮮烈に残っている。さらっと読むと何でもないんだけど、少し時間が経ってから、「あれはそういうことだったのか」と「ひやっと」(作者のことばを借りれば)する作品だ。

螢・納屋を焼く・その他の短編 (新潮文庫)

螢・納屋を焼く・その他の短編 (新潮文庫)